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数字と情感と教育

   某県某知事が「サイン、コサインを女の子に教えてなんになる」といった発言をしたのが話題になっている。「口が滑った」のだそうだが、もちろん本気でいつもそう思っているから「口がすべる」のである。でも、彼を個人的に糾弾する気はない。多くの同世代の男性は同じように思っているに決まっているのであり、彼はたまたま不注意にもその本音をぽろっと口にした、one of themにすぎないのだから。問題は彼個人ではなく、その世代男性のエートスにある。

岩田健太郎(神戸大学感染症内科診療科長・国際診療部長)
岩田健太郎(神戸大学感染症内科診療科長・国際診療部長)

   しかし、「女の子」はおいておいて、「サイン、コサインを教えてなんになる」と思っている人は多いのではないか。男性のみならず、女性の中にも。なので、良い機会だから「そういわれると、習ってどうなるのだろう」と考えてみてはどうだろう。

   僕自身、高校時代数学は苦手ではなかったけど好きでもなかったし、役に立つとも思ってなかった。医学部に入るとほとんど数学は必要なくなるし、計算は「コンピューターにおまかせ」でやってやれないことはない。サイン、コサインなどシランでもええやん、と思っていた。

   思っていた、と過去形で書くのは今はそうではないと思っているからだ。

   何年か前から感染症の数理モデルととっくみあう機会があったが、「まあ、難しくてよくわからんな。あれは専門家にお任せ」と思っていた。教科書を買って何度か開いてみたけどチンプンカンプンだった。

   ところが、数年前に数学者の森田真生さんのお話を聞く機会があり、また郡司ペギオ幸夫先生の本を読んだりお話を聞く機会があり、「これはこの世界に飛び込むとむっちゃ楽しそうだぞ」と思うようになった。とくに森田さんに教わった岡潔の「数学は情緒」であるというアイデアにかなり魂を揺り動かされた。もっとも「飛び込むと大変なことになりそうだ」という恐れもあってダイブはできなかったけれども。

   で、去年からエボラやデングの数理モデルをお手伝いするようになり、今年からまじめに勉強することにした。ところが、高校出てから数学やってないのでぜんぶおさらいしなければならない。感染症数理モデルの教科書を読んでもよく理解できないので、数理モデルそのものの教科書を開く。それでもピンと来ないので、基礎となる微分方程式の教科書を読む。まだピンと来ないので微分積分を復習する。ここで三角関数(サイン、コサイン)がでてくる。行列も勉強せねばならない。というわけで、かなりドボ漬けになった。

   ここまでやると、これまでフワフワと使っていた統計解析の諸式も少し見え方が変わってくる。使いこなしていた(つもりになっていた)ベイズの定理の見え方も変わってくる。数字のクオリアもより明確に見えてくる。数字にはクオリアがあり、医学生が臨床医になる際にまっさきに感得すべきはこの数字のクオリアである。しかし、数学を勉強するとさらに異なる、深みのある、色彩豊かな数字の姿が見えてくる。

   ちょうどラジオスペイン語講座応用編では小川洋子の「博士の愛した数式」を朗読している。スペイン語には「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ」のような平方根の暗記法はないのだそうだ。なるほど、日本における数学学習は「情緒」なのだと改めて思う。

   高校時代は授業もまともに出ずにすぐに図書館に逃げるような生活をしていたと思っていたが、不思議なことに数学を学び直すと、20年以上前の勉強の記憶が蘇ってくる。あれをサラから勉強するのはおそらくかなり大変なはずだが、高校時代にやった記憶を呼び戻すだけならわりと容易である。高校時代に数学と取っ組み合うのは、よいことなのだ。

   もちろん、多くの人がそのような再会の機会を持つとは限らない。けれどもそれは詩に親しんだり野花の名前を覚えるのも同じことだ。大人になって詩を読むことなく生涯を終える人は少なくないはずだ。

   ぼくは今になって子供時代にやった(やらされた)玄関掃除や靴磨きや炊事のまね事や畑仕事を「やっていてよかった」と感じられるようになっているが、それはたんなる「まぐれ」の可能性も高い。そのような邂逅なしで人生終わらす可能性も高かったのだ。しかし、そのような再会があった時のよろこびはまた格別である。高校時代にはとても理解できないであろうこの理路は「とにかくやっておけ」という言い方でしか説得できないのだけれども。要するに快楽は大事なのであり、数学を学ぶとはこの「快感を得る」体験そのものなのだと思う。数学者の多くは数学を教えたり取っ組み合っているとき、実に恍惚とした表情をしているし。

   惜しむらくは、高校時代に数学を「手段」ではなく「目的」として学ぶ姿勢を持っておけばさらによかったであろうということだ。ぼくが高校生の頃は「受験戦争」の時代で、全ての勉強は受験の道具であった。これが多くの高校生に「学問は手段である」との観念を植え付けさせ、よって「利得が得られない学問は無意味」という先の知事的な観念をもたらした。ぼくはそう思う。今、文科省とそのブレイン(ノータリンなのにブレインとはこれいかに)が文系の学部を減らそうと意図しているのも、全く同じ観念だ。

   岡潔の残した書物は教育に関する言葉が多い。手段ではなく、目的としての学問に向かう姿勢、情緒としてのその姿勢を説いている。多くの教育関係者は読むべきだし、とりわけ学問をどんどん「やすい」ものに劣化させている文科省の人たちは一度は岡潔の言葉を肝に銘じるべきである。

   「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くのがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのではおのずから違うというだけのことである」 「発見の鋭い喜び」より。

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この記事の監修・執筆医師

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